

(glasslipidsから)
■材料
材料については、こちらも参考にしてみてください。
風味を化学分析している専門家のNeil博士によると「これらの材料を100回混ぜるとなじんで良い味になる」そうです。さらに、「ブラッディーマリーは人間の味覚のうち、甘味、塩味、酸味、うま味、香りと、苦味以外のすべての味覚を網羅している」とか。
このように材料の構成を分析し、特質を考慮した上で導き出された、完ぺきなブラッディーマリーを作るためのコツは、以下になります。
■作り方のコツ
フレッシュなうちに作る
科学的にブラッディーマリーは「かなり不安定な」混合物なので、素早く作って味が落ちないようにします。
氷で冷やす
ブラッディーマリーに氷を入れると、トマトジュースの酸化や、他の材料の味の劣化などの化学反応を遅らせられます。
一生懸命混ぜる
シェーカーを使って混ぜると、生鮮系の材料の香りや風味がより引き出されます。
トマトジュースは惜しみなく
ブラッディーマリーの中身はほとんどがトマトジュースです。ですから、良いトマトジュースを惜しまず使いましょう。
ウォッカは安いものでもよい
ブラッディーマリーの香りは強力でスパイシーなので、ウォッカはそこまで良いものを使わなくても良いです。
ただの美味しいブラッディーマリーの作り方というだけでなく、そこに化学的な根拠があるのがいいですよね。味覚は人によって異なりますが、根拠ある作り方は一定の信頼感を与えてくれます。
ライフハッカー[日本版] - 化学的な根拠を元にした完ぺきなブラッディーマリーの作り方 (via darylfranz)(glasslipidsから)

Product Pov | adlens – adaptive lens technology
メガネのサイドに付いているダイヤルを回すことでレンズに入る液体の量を調整し、度数を合わせることができる液体レンズ技術
(glasslipidsから)
私は20年来の放射線オタクだから、放射能を持つものに忌避感がない。むしろ好んで線源を収集したり、放射線の強い場所に出かけていく。「放射線が
細胞に当たるとガン化する」「口に入って内部被曝したらおしまいだ」などと過剰に恐れる人がいるが、人類は胎児のうちからおよそ毎分1万回のペースで自然
放射線に被曝し続けている。政府が立ち入りを許しているレベルの汚染は日常の延長レベルだ。最も線量の大きかった浪江町のスポットでも、私の部屋に転がっ
ている閃ウラン鉱標本表面の半分くらいでしかない。
とはいえ、一個の標本は50cmも遠ざければ検出不可能になるが、地域全体が汚染されている
場合はそうではない。線源を光源とみなして、カメラで近づいたり遠ざかったりするところを想像してみよう。視野全体が光っていると、カメラを遠ざけても
トータルの光量は変わらない。それだけ広い範囲が視野に入るからだ。地面のβ線は1mも離れれば届かなくなるが、γ線は100m離れても届く。
そこで長く暮らすかどうかは難しい判断になる。飯舘村南部や浪江町は避難したほうがよさそうだが、福島や郡山はよくわからない。結論から言うと、低線量被
曝の影響については人知が及んでいない。LNTモデルなどの仮説・仮定はあるが、批判もあって揺れている。みんながやきもきするのは当然だが、政府に正し
い基準を決めてくれと迫るのは無理な話だ。わかっている人間は現在の地球上にいないのだから。
低線量被曝より何十倍も大きなリスクがあるとわ
かっている喫煙を、成人は任意に行える。飲酒や車の運転、登山もまたしかり。ところが放射能汚染については政府に強制してもらいたい人が多数派だ。これは
強制というより「導きがほしい」ということなのだろう。だが菅直人を誰かにすげ替えても、あるいは自民党に政権を担わせても、せいぜい印象が変わるだけ
で、結局誰かが「えいやっ」と決めることになるだろう。その任を負わされた専門家が、先日涙ながらに辞任していった。そのつらさはよくわかる。
自己責任で決めろ、ということになったら、自分はどうするだろう?
今回の旅で、私は福島がすっかり気に入ってしまった。阿武隈高
原のあたりが特にいい。福島の山は全体に険しさが少なく、どこでも歩いて入っていけそうな感じがある。信夫山から眺めた福島盆地も暖かみがあって良かっ
た。気仙沼港や久之浜の海岸も美しい。人柄も良く、東北訛りも魅力的だ。
現在の私の認識だと、いわき、田村、郡山、福島市あたりなら、機会があれば喜んで移住するだろう。だが家族に妊婦や乳幼児がいたら、少し慎重になるかもしれない。自分が住もうとする地域のホットスポットをきめ細かく調べて判断するだろう。
(glasslipidsから)
(skamioから)
今のコンピュータ、特に、メールとオフィスソフトは、紙に未練がありすぎる。紙のフリをしたビットだ。もう、ビットはおとなしく紙のフリをすることはない。凶暴な本性を露にして、遠慮なく生のビットになっていく。
市役所の住民課が、住民基本台帳というファイルキャビネットのメンテナであるように、今の大半の組織は、紙の書類を集めたファイルを収納したキャビネットの番人だ。ビットは紙のフリをして、ITはファイルキャビネットのフリをして、紙の世代の人類にうまく話を合わせてきた。
ビットをビットとして扱えない所から「PCスキル」という概念が生まれる。でもそれは、「顧客が本当に必要だったもの」の前ではほとんど意味がない。
iPad以降に生まれてくる人たちは、当然のように、ビットがビットとしてふるまう、そういう世界を求めるだろう。彼らも紙を使うべき所では紙を使う。キーボードのあるPCを使うべき所ではそれを使う。でも、彼らから見て、適正にビットをビットとして使うということは、我々から見ると暴力的な革命にしか見えない。ビットは共有可能であるからだ。
グーグルとかアップルとかは、本隊ではなくて、そういう世代の偵察部隊にすぎない。偵察部隊を敵全部だと思うのは大きな勘違いで、本隊はこれから続々生まれてくる。発展途上国でこれからITを使いだす人たちも、援軍として参加するだろう。
紙に縛られず、紙やファイルキャビネットのメタファーに縛られないということが、どれだけ、組織というもののあり方を根本的に変えていくか、これから我々はそのことに翻弄されていくのだ。組織を変えるというより、ビットが持つ自由度と制限の範囲で、人は自分の好きなようにつながる。組織というものは、無数にあるつながり方のものすごく特殊なケースの一つにすぎない、ということがわかってくるだろう。
ビットが紙のフリをするのをやめた日(glasslipidsから)
(gutarinから)